家の近くに、昔から馴染みの喫茶店がある。
革張りのソファーに、吊り下げ式のランプ。歴史を感じる店内には、焙煎した豆の香りがゆるりと漂い、とても居心地がよい。子どもの頃は、コーヒー好きだった祖父に連れられて通い、何をするともなく長居したものだ。
やがて自分が親となり、今度は小学生の息子とその喫茶店に通うようになった。
私は深煎りのブラックコーヒー、息子はミルクたっぷりのカフェオレ。時にはケーキやサンドイッチをシェアしながら、他愛もないおしゃべりを楽しんだ。
だが、息子が思春期に突入するとだんだんと回数も減り、いつの間にか一緒に訪れることはなくなった。
それから時は過ぎ、息子は18歳。大学の合格発表を終え、「どちらの道に進むか」という岐路に立っている彼を久しぶりに喫茶店に誘った。
第一志望だった国立大学は、残念ながら不合格。併願していた地元の公立大学と、実家から遠い私立大学には合格したが、息子は進学先を迷っているようだった。
「コーヒーでも飲みに行こうか」
私は、軽い調子を心がけて言う。
「…うん、そうだね。話したいこともあるし」
数秒の沈黙のあとに、息子はこっくりと頷く。
何年かぶりに2人で訪れた喫茶店は、変わらぬ佇まいで私たちを迎えてくれた。あの頃と同じ、窓際のボックス席で向かい合う。唯一違うのは、息子が注文したのがブラックコーヒーだったことだ。 窓から射し込む早春の光が、テーブルの上に淡い陽だまりを作る。進学先の話題には何となく触れないまま、穏やかに時間が過ぎていった。
「決めた。今日は僕が払う」
帰り際、息子がさっとレシートを取り、悪戯っぽい顔を私に向ける。そして、こう続けた。
「授業料高いけど、よろしく」
その瞬間、私は息子の決断を悟った。
――そうか、決めたか。よし、わかった。
私は心の中で呟いて、小さく親指を立てた。
言葉にせずとも通じ合えた、お互いの気持ち。その阿吽の呼吸が清々しかった。
その春、息子は自ら選んだ私立大学に進学し、実家から巣立っていった。
いつもの喫茶店でブラックコーヒーを飲むたび、大人への一歩を踏み出した彼の姿を眩しく思い出す。
本エピソードは、AGF®パートナー 保健委員 さんの体験を基に執筆しました。
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